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日本人は繰り返す

 大日本帝国は、「二大政党」の国だった。
 与党の政友会と、最大野党の民政党。この二つの政党政治が、大日本帝国の舵取りをした。

 政友会は、伊藤博文初代総理大臣の監督指揮のもとスタートした。民政党は、その前身となる憲政会を基軸に、商工業者などの支持基盤をもっていた。

 大英帝国、かのイギリスの二大政党、ホイッグ党とトーリー党のように「日本もなる」と純粋な目で信じ、多くの国民が「民政党」に投票した。

 民政党の政策は、軍縮と金解禁であった。
 結論から言うと、民政党の犯した経済失政によって、大日本帝国は海外領土を求めなければ生きることが出来ない状態となった。

 民政党の浜口雄幸総理は、海軍軍縮条約を結んだ。
 当時の日本は、政府が民間企業に軍艦の建造を発注し、そしてこれらの企業が多くの労働者を雇用し、給与を与えるという、今日でいう公共事業の形態をとっていた。

 ところが、民政党は国内の経済政策よりも「外交」を優先した。そして、軍縮条約を結び、国内の雇用窓口を削減した。

 この程度はまだ良かった。
 最も悲惨な結果を招いたのは、同じく民政党の井上準之介大蔵大臣の「金融政策」だった。

 当時、世界恐慌が発生していた。
 世界各国は、自国内の金貨を国外流出するのを避けるため、金の輸出禁止政策をとっていた。

 当時の国々は、金本位といって、紙幣の価値は「金貨と交換できる」ということにあった。紙幣一枚を持参する者に金貨一枚と交換できる、というシステムがあることによって、紙幣価値をもたせていた。

 従って、国家が保有する金貨の量が低下することは、国家の紙幣価値そのものの低下につながる。

 だからこそ、世界各国は金輸出禁止をしていた。

 ところが、民政党だけは「オリジナル」の考え方をもっていた。それは、逆に「金貨を解放する」というものであった。

 世界恐慌が発生すると、世界各国は関税自主権を使い、国内産業を保護し、外国製品を排斥した。アメリカも、イギリスも。

 当時の日本の主たる輸出品は絹織物であった。しかし、恐慌によって需要が下がり、価格も低下した。

 なぜ日本製品が海外で売れないのか。
 その背景には、まだ日本製品の価格が高いからだと民政党は考えた。では、どうしたら日本製品の価格が下がるのか?

 それには、日本円の価値を下げればいいと考えた。

 民政党は、金解禁をした。
 このときの外国為替相場は、平均して1ドル2.3円であった。ところが、金価格による直接交換レートは、1ドル2円であった。
 1ドル金貨は1.5グラムの金含有、そして1円金貨は金0.75グラムの金含有と定められていたからだ。

 外国為替よりも、金の直接取引をした方が安い。
 このため、誰もが金貨で取引をして、日本の金保有率は著しく低下した。

 そうすると、保有する金貨の量に応じて発行できる貨幣が決まるため、流通する貨幣量も低下した。つまり、デフレーションとなったのである。
 デフレによって商品の価格は低下した。これで日本製品が海外で売れると民政党は信じ、この金解禁という経済政策を行った。

 ところが、世界恐慌下である。

 価格の問題ではなかった。
 そもそも、「日本製品」自体が売れないのである。

 需要がない。

 にもかかわらず、金解禁をし、日本の持つ金貨を流出させてしまった。日本円の信用はなくなり、日本製品も売れなかった。

 もう、後にも何も残らなかった。

 「おわり」だった。

 これを昭和恐慌といい、農村でも欠食児童といわれる食事を与えられない子供達や、また女性達の売春業への「身売り」が社会問題となった。

 大学をでたけれども、就職できないという時代になり、東京帝国大学を卒業して、やっと路線電車の運転者に採用されて「よかった」という時代になった。

 労働者は食を失い、残飯あさらなければならなくなった。

 日本の未来は無かった。

 人口の数に対して、その人口を費用とする「需要」もなければ、支えるだけの「経済力」も無かったのだ。

 民政党の井上大蔵大臣は、この経済的失政の責任を問われ、最終的には「血盟団」と称する組織に、暗殺された。

 誰が日本を救うのか? どうやったら日本は生き残ることができるのか?


 関東軍の参謀、石原莞爾、ただ一人であった。

 石原莞爾は満州事変を計画し、満州そのものを北支から分離し、大日本帝国の「市場」とした。時、昭和6年(1931年)である。

 アメリカやソ連の商品を排除し、日本だけの市場にした。

 こうして、日本国内の供給に対して、満州市場という「需要」を確保したのである。

 「満蒙は日本の生命線」

 政党の犯した失政を軍人たちが救った。

 軍人が、日本経済を救った。

 もはや、国民感情は、政党ではなく軍部に対する期待だけあった。

 昭和7年(1932年)、政党政治最後の総理大臣である犬養毅のもとに、海軍青年将校が乗り込み、南部14式拳銃をその頭部に向けた。

 「まて、話せばわかる」

 「問答無用!」

 青年将校の放った銃弾は、犬養総理の頭部を突き抜けた。

 日本国民は、これをどう捉えたか。

 「政治家が悪い。軍人さんのしたことは正しい」

 「海軍青年将校を軍法会議にかけて死刑にしないで」とする嘆願書が、毎日、毎日、100万通以上も届いた。

 政党政治は、ここで終了する。

 政党から軍部へ。 その背景には、政党政治の犯した「罪」があった。

 平成21年8月30日。

 民主党の経済政策は、民政党のそれと同じだ。何も考えていない。
 財源がない。

09/02/09 [ カテゴリ:標準 ] トラックバック(0) コメント(0)